“どっちもどっち”と“好みの問題”は同一のものではないのか?

 寝る直前にびびっと閃いた。
AでもBでもどちらを選ぶにせよ“どっちもどっち”という場合、AよりBの方がいいと思っているのも、BよりAの方がいいと思っているのも結局はそれは“好みの問題”なんではないだろうか?
 
 具体例で言うと、“前衛がサモナー取るよりも、後衛にサモナーを取ってもらった方がいい”と思う自分の考えも、“前衛が取ろうが、後衛が取ろうが、どっちもどっち”という六門神の考えもどちらかが間違っているとかそんなちゃちなものではなく、この二人の考えを分かつものはやっぱり“好みの問題”なのではないだろうか。
と思って振り返ってみると、その後に“認識とか好みって言ってしまうと、何事も認識か好みの差だと思うのだけどw”という六門神からの華麗なる突っ込みがあるわけで……。
 
 ただ“どっちもどっち”の場面で最終的にどちらかを選択しなければならないはずだ。
上記の例では、誰か1人がサモナーを取得しなければならない場面では、前衛か後衛のどちらかが取得するわけだ。
“どっちもどっち”なものから選択する時の決め手って結局その人の“好み”になるんじゃないかと。
しかし、こう思うのだが、上の突っ込みに繋がるわけで……やばい、これは堂々巡りって奴なのではないのか!?
あれ? もしかして、自分が間違っているって認めればOK?
OKOK、自分も大人だ。間違いを認めるよ。
 
最後にそれでも“どっちもどっち”と“好みの問題”は同一のものなんだ!というガリレオの口調で締めくくろう*1

*1:どう見ても間違い認めてないだろ、常識的に考えて